そろそろ、2014年に58歳で会社を辞めたことについて書いてみようと思います。
私は、2000年にトヨタ本社に行って、トヨタグループの同僚と一緒に、「マネジメント改善の手法を作る」プロジェクトに加わりました。
その前にも、もうサラリーマンは辞めようと真剣に悩んでいました。
家業は大工でした。
父も終戦のどさくさで家業に就いたという、不本意な思いをしていたようです。
ですから、私に家業を継いでくれということは、一言も言ったことはありませんでした。
会社に入ってからずっと、「こんなことしていて良いのか?」という気持ちが続いていましたが、「会社を辞めるには、何かを成し遂げてから」という強い意志がありましたので、それを意識しながら仕事を続けていました。
上司からでも「こうしろ」「ああしろ」という、趣旨のわからないことには、従ったことがありません。
自分の納得のいくことしかやりませんでした。
最初に気に入ったのが原価企画でした。これはブログでも時々紹介しています。
トヨタの主査のもとでやる原価企画は部品原価だけを対象にしていました。
車両の原価全体でみると、車を組み立てる仕事はトヨタ内製の原価になるため、開発部門からのコントロール範囲外になっしまいます。
私のいた会社は、内製加工費そのものでしたので、「設計は部品費だけの活動だが、加工費は誰が見るのか?」というとほとんど普通の原価低減活動の範囲内のことでした。
私は新車の加工費の増減をコントロールすれば、現状よりもっと画期的に原価が低減できると確信しましたので、原価企画体制の中に「投資・工数」の部会を作ることを提案しました。
のちに加工費部会という名に回収されて今でも継続しているはずです。
東北に工場を建設する企画が起こった時にも、工場管理を経験してみたいと考え、手を上げました。その時には企画部署にいたので、指名されるのは当然の成り行きでした。
既存工場の原価をベースに新工場の原価を企画しました。
それだけに留まらず、企画した原価をベースに実効予算を組みました。目的の説明できる費用だけで予算を組んでみました。
これは少し無理がありましたが、実行部署と予算管理部署のせめぎ合いが起きたのです。
私はこれが本当の原価管理だと考えています。
反論はありましたが、なんとか形を作って本社に戻りましたが、人が入れ替わると簡単に普通のやり方の戻っていました。
少し前置きが長くなってしまいました。
退職して時間が持てるようになってから、今まで接していなかったいろいろな情報に接するようになりました。
私にとって新たな情報に最初に驚いたことは、今の日本が置かれている状況がどうして起こったのかということに対する大きな誤解があったということを知ったことでした。
日本は戦争に負けた
こちらから悪い戦争を仕掛けたから
やけ槍しか無くなってしまったのに、気持ちだけで勝てると思っていた馬鹿な民族
進駐軍はチョコレートを配ってくれる優しい人たち
天皇陛下の命令で一億全員が戦い、玉砕した
など など
今振り返ると恐ろしいまでに、誰かに染められた史観でしかありません。
今日は2021年4月5日ですが、
いまだに続いているコロナウィルス騒動とウクライナ紛争
これも「日本が仕掛けた戦争」と同じように、誰かが作った通りのシナリオでしかないようです。
左翼・右翼という表現で物事が説明されることがあります。
そのような観点で言えば、当時の私は無邪気な左寄りのリベラルに近かったと思います。
リベラルという意味も私には本当に納得できるところまで理解はしていません。
時のルーズベルト大統領が(戦争に加わるために)日本に宣戦布告させた。
自国内に隠してまでその戦法を貫いた。
トルーマンが原爆を日本に落とした。(無差別殺人は国際法違反)
それを隠すように「東京裁判」を行った。
日本人を洗脳するために、NHKの番組を使った。 (NHKは今でもその既得権力を継続している)
日本人は、上記の戦略通り優しく従順な集団になった。
日本人はアメリカの核の傘の下に入って安心しているが、アメリカの派遣はもはや続かない。
ドル本位性はすでに崩れている
ロシアが金本位制に還ったことはその流れにある
日本のメディアでは誰も伝えない
ここに書いたことは誇張でもなんでもありません。
会社にいた頃、私の目に入りませんでしたが、知る人ぞ知る出来事です。
物事を少し上の次元から眺めることは重要です。
山に登れば、いつもと違ったものが見えてきます。
(苫米地式コーチは、抽象度という言葉を好んで使いますが、この概念です。私の中ではこの言葉はまだこなれていませんので、使いたくありません)
このブログでは、時々左右関係なく日本に関係のあることを書いていきます。
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