前回のブログに続いて、今回はお釈迦さまの教えの本質「縁起」と「空」について、整理します。
私たち日本人は、お釈迦さまの本当の仏教について知らされていませんでした。
それは、日本の仏教で言う、「イスラム軍の侵攻によりインドの仏教は滅亡した」という説明があることが示しています。
私も漠然とこう思っていました。多分何かの本で読んだことが、このようなイメージとなって、脳に残っていたのだと思います。
「インドでは仏教が滅び、中国で仏教は廃れ、ちゃんとした仏教国は日本だけだ」
私は今、これが間違いであることを理解していますが、こう考えている人は、今でもいるのではないかと思います。
しかし、「ちゃんとした仏教国は日本だけだ」と言う認識は事実とはかなり違います。
イスラム軍の侵攻によってインドで仏教が滅びたものの、当時の北インドや東インドに住んでいた偉い僧侶たちは、みなネパールやチベットに逃げ込んで生き残りました。
そして彼らは、その地で仏教を伝えました。
これを小乗仏教と言います。(本来は、上座部仏教と言うべきです。)
日本に伝わった「仏教」は、大乗仏教ととばれています。
無知だった私は、「大乗(大きい)の方が正しい」と勝手に決めつけていました。
これはたいへんな誤解でした。日本に伝わったのは仏教ではなく、道教化された仏教です。
それは仏教というよりも、道教もしくは儒教といったほうがいいくらいです。
道(タオ)は「何にもよらずそれだけであるこの世でたった1つしかない真実」という概念、カントの言う「アプリオリ」の概念です。
未来永劫変わらず正しいという概念を指します。
しかし、お釈迦さまは道(タオ)を否定しています。
「この世にはたった1つの真実などない。一切何にもよらず、それだけであるものはこの世にはない」という発想です。
なので、道(タオ)など聞きようがないし、そのために死ぬなどもっての他です。
大乗仏教は、その上にさらに、大きな間違いを犯しています。
お釈迦さまは「神はいない」と言ったにもかかわらず、「如来」という神の概念を取り入れてしまいました。
薬師如来や大日如来などの神が新たに作られただけでなく、お釈迦さま本人も「お釈迦さま如来」という名の神にしてしまいました。
お釈迦さまは、そうした呪術を使うことを否定していました。
お釈迦さまはアートマン(魂、自我)を否定することで、輪廻転生がないことも説いsています。
それにもかかわらず、一部の仏教寺院ではいまだに輪廻があるように言われています。
以前の私も、当然のように、輪廻とは仏教の教えだと思っていました。
私は、仏教について学んだことなどなかったにもかかわらず、仏教に関する間違った記憶をたくさん持っていました。
多分私の人生の中で、周囲から聞こえてくるお釈迦さまの教えと矛盾する「教え」を、私の無意識が溜め込んで、私が意識に上げるときに、そのような記憶を引っ張り出してきてしまうのではないかと想像しています。
道教には、「空」ではなく、「無」の教えがあります。
それが「道(タオ)」とともに日本に伝わりました。
「無」と「空」の概念がたいへんに難解であるという誤解を生む原因になりました。
西洋でも一時、仏教が「虚無という概念」で伝わり、恐る恐る、疑心暗鬼のような感覚で、仏教を見ていた時代もあるようです。
道教の「アプリオリがある」という教えと、お釈迦さまの「アプリオリはない」という教えを両立させようとすれば、無理があります。
サンスクリット語で書かれたオリジナル経典の日本語訳の中には、「空」についての記述や、「アートマンも空だ」ということも書かれています。
「道(タオ)」のようなアプリオリなものを、徹底的に否定する内容になっています。
そして、「空」という概念が本来のお釈迦さまの教えであることを知った、昭和の日本では、仏教学が俄に盛んになりました。
バラモン教が超能力をやれば、仏教も対抗上、それをやらざるをえません。布教のために、両者は超能力合戦をくり広げました。
それがヴィクラマシーラ寺におけるインド密教の最後の姿であり、いろいろなとてつもない超能力ワザが用いられました。
それがチベット経由で現代に伝わっているということです。
チベット仏教は、お釈迦さまの教えとお釈迦さまとは異なる密教が両立しています。
そして、そのお釈迦さまの教えの部分に世界の仏教学者は注目し、お釈迦さまではない部分にオウム真理教が注目しました。
日本の仏教は、お釈迦さまの本来の教えからは大分離れていってしまいました。
日本では、道教や、老荘思想にもとづいた「仏教」しか知らなかったわけです。
昭和以降、「空」を学んだ学僧や宗教学者によって、お釈迦さまの仏教を研究し直しているのが、現在の日本の仏教です。
お釈迦さまは、悟りを開く前に、餓死する寸前まで徹底的に苦行を行い、行き倒れます。
そこで、スジャータという女の子にお粥をもらって生き長らえ、その結果、菩提樹の下で悟ります。
その経験を持って、苦行がいかにムダなことか、徹底的に語っています。
お釈迦さまの修行は、瞑想です。
瞑想体験で空を体験するという方法もあります。それはチベット仏教にも伝わっています。
日本では、滝に打たれたり山にこもったりの仙人修行的なものが強く、「苦行」と「修行」を決定的に取り違えています。
お釈迦さまの入滅後600年以上たって、浄土信仰が仏教に入ってきました。
インドで大乗経典が成立する過程で、バラモン教から「神」の概念を取り込んだところから、大乗仏教が始まっています。
赤い糸というのは道教の概念で、両者の間に縁を結ぶための儀式です。そうすることで、阿弥陀さんに縁ができたから阿弥陀浄土に行けますよ、という意味を持たせていました。
こうした中国浄土教の論理をベースに、親鸞が、大乗仏教をキリスト教レベルの論理に変更しました。
親鸞が展開したのは、阿弥陀の本願から出発した考え方です。
阿弥陀如来は本願で、「生きとし生けるものすべてが悟るまで、私は浄土で待っています」といっています。
本願:仏や菩薩が過去世の修行の期間に立てた誓願。 人々を救済しようとの根本の願い。
そこで親鸞は、「阿弥陀さんがそこまでいっているということは、つまり、あなたがすでに救われているということです。
あなたが『南無阿弥陀仏』と唱えるのも、それは縁があるから、阿弥陀さんにいわされているのです」という論理を展開します。
念仏は一言唱えるだけでいいし、口に出さなくてもいいのだ、と教えます。
親鸞の考え方は、キリスト教の神の無償の愛と同じです。
人間が幸せに生きることの妨げになっているのは、煩悩のためです。
他人から操作された欲望によって不必要なお金を使ってしまったり、健康を損なってしまいます。あらゆる不幸は煩悩を制御できないことで起こっています。
現代人にとって煩悩をどうコントロールするかが、ますます重要になっているのです。お釈迦さまはその方法についても語っています。
悟るのも難しくなければ、悟りについて理解するのはもっと簡単です。ただ「この世は幻」と知るだけのことです。
「幻」と聞くと「この世が存在しないなんて恐ろしい」と思う人がいるのですが、この世が「ない」とは言っていません。
空とは、抽象度を究極的に高めていった先にある精神状態です。
つまり、誰にも同じに見える物理的現実世界はないと言うことになります。
縁起とは、人生のさまざまな機会に選択をすることによって「縁」が生まれ、「縁」は未来の「起」と関わっています。つまり、
世界は関係によって成り立っていると言う意味です。
物理空間では、素粒子の状態にすぎないということです。
量子力学では、「誰にも同じに見える物理的現実世界はない」ということが理解されるようになりました。
お釈迦さまは、2500年前から、「誰にも同じに見える物理的現実世界はない」と言うことと、「世界は、関係でできている」と言う悟りに至った人なのです。
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